9月になって久しぶりの講座で、イエスさまの復活についてのお話がありました。
講座を担当していただいているT神父さまは、現実的な考えを持っておられるようで、聖書に出てくる奇跡的な箇所は、「後から思うとそうだったと思ったのでは無いでしょうか」とか「思い込みがそう見えたのでは」というような、私からすればとてもドライなコメントをされるので、ちょっとがっかりすることもあるのですが、この日の「復活」に関しては、その現実的なコメントに返って励まされるようなことがありました。
「エマオでのご出現」に関しても、どうして弟子たちがイエスさまに気がつかなかったのか不思議に思ったので質問すると、しばらく考えておられて「きっとイエスではないまったくの別人だったのでしょう」と、あとから思い出せばあのときのあの人はイエスだったのではないかということで書かれたのではないでしょうかということでした。
きっとイエスさまの魂がその人を通して語ったのでしょう、とおっしゃいました。
そしてそのあとイエス様の復活についてはパウロの場合は時間も空間も越えたところで行われている、とおっしゃったので、「じゃあ、私たちのところにも誰かを通して現れてくださるかもしれませんね。そう思うとわくわくします」というと、「でもそれがいつ起こるかはわかりませんよ」とおっしゃったので、「だからいつも目を覚ましていなさいとおっしゃったんですね」というと、神父様はにっこりされました。
その瞬間世界がパーっと輝いたような気持ちになりました。
この時の気持ちを忘れないようにして、日々の出来事の中に宝物を探すように暮らしていきたいと心から思いました。
でも現実にはなかなかうまくいかずくらい気持ちになることもあるのですが、今の幸せ、そして平安を感謝して生きていかなければいけませんよね。
今更ながら、そんなことを考えています。